プロローグ

 足を踏み出すと音を立てて何かがつぶれた。
 転がっていた死体を踏んでしまったらしい。
 狼は嫌そうに顔を歪めた。
 踏んだ勢いで飛び散った血がその美しい毛を汚す。
 狼――彼は血のついた足を鬱陶しそうに振ると辺りを見渡した。

 早朝、日はまだ姿を見せていないが、丸みを帯びた月が白い光を落としているためそう視界を気にするほどのことはない。
 彼の目には逃げ惑う人間とそれを追う仲間の姿がはっきりと映っていた。
 小さな村の至る所で狼と人間の戦闘が見られる。
 それらを眺めていると、彼はその中に違った動きをする一頭を見つけた。
 民家から少し離れた場所でぬかるみに足をとられ苦戦している。
 滑稽だ、と彼は思った。
 彼は、人間に首を落とされようとするその仲間を一瞥すると、自らが目指す方向に向き直った。
 背中からの悲鳴は、他の仲間の雄たけびでかき消される。

 彼らの狙いは、村に滞在中の王ただ一人だ。
 狼達は皆、王の足を手を食いちぎる様を想像し歓喜の声を上げる。
 彼は人間の肉を意気揚揚と裂く仲間の後に続いた。
 足下に転がった人間や仲間の死体は気にも止めない。
 ただ、同様に転がっている人間の武器と上から降る矢を避ける事には気を使う。

 正直なところ、彼は疲れていた。
 思えば森の住処から休み無しだ。
 限界だった。
 今は、目的を果たし早く帰りたいという気持ちが強い。
 しかし、人間がしぶとく抵抗するためなかなかその場所へ進めない。

「"早く死ね"」

 苛立ちを込めそうはき捨てると、ちょうど目線の先に居た人間がひぃと声を上げた。
 言葉が分かるはずは無い。
 だが、まるでその意味を感じ取ったかのよう怯える姿は妙に癇(かん)に障る。
 彼はもう一度低くうなるとその人間の首を食いちぎった。
 ぼとぼとと流れる血が彼の毛並に吸い込まれる。

 狼は水が好きだった。
 狼の森の中央には大きな湖がある。
 彼もよくそこで仲間と水浴びをした。
 故郷への懐かしさのせいか、紅い水を噴き出す人間への嫌悪感が少し和らいだ。

 ようやく目標の人間の塊につく頃には、先を行っていた仲間は既に死んでいた。
 首が胴から離れ、赤黒い血を流している。
 周囲を見れば、他の仲間も残り少ない。
 疲れきった体を引きずり人間の塊まであと少しと迫った時、その中央に幼い少女を抱いた男の姿が見えた。
 その途端、彼の身体が一瞬にして熱くなった。
 視界には男の姿しか入っていない。
 前に飛び出そうと構え、後ろ足に力を込める。
 しかし、あからさまに攻撃の姿勢をとった彼を人間は見過ごしてはくれない。
 彼が中央の男、王に気を取られている間に前進していた兵が、彼に刃を振り下ろす。
 恐怖はなかった。
 ただ、道を遮る人間が邪魔だった。
 彼は構えた身体にさらに力を込め、地面を強く蹴り前に飛び出した。
 同時に振り下ろされる刃をその腕ごと食いちぎる。

 綺麗に弧を描き着地した場所は、王の目の前。
 すぐに他の人間が駆けつけ背中に痛みを感じる。
 目の前の王は目を細め、少女を抱きしめながら狼を見下ろしていた。
 その目と目が合い、狼はハッと我に帰る。
 強くあった殺意が一気に冷めた。
 己が何故その様に思い、行動していたのかがわからなくなった。
 彼は混乱した頭をぶんぶんと振りながら足に力を込めるが、既に立たず。
 人間の叫び声と共に振り下ろされた一振りによって、まもなく絶命した。



...2008.7.27